スタッフブログ
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行15を読んで
【本文】
1986年(昭和61年)11月から88年11月までの2年間は秘書室にいた。当時の田淵節也会長、通称「大タブ」さんの担当である。異動を命じられた時、最初は前年に社長になった田淵義久さん、「小タブ」さんの秘書かと思った。逆に言うと、それくらい田淵節也さんのことは知らなかった。最初の日に恐る恐るあいさつに行くと、いきなり「君、今日は空いてるか」。忙しいと言えるはずもなく、社内の打ち上げの宴会に連れていかれた。…
【感想】
「美点凝視」人間は、相手の欠点が真っ先に見えます。視力検査のマークはなぜ円の欠けた部分を指せるのか。それは、円の整った部分は全く気にならないが、欠けた部分が真っ先に目に入ってくるからです。これは、第一印象でも同じことで、身なり、言葉使い、声の大きさなど、初対面の方には、一目で判断されてしまいます。そのうえで、長所や徳性を意識的に注視し、伸ばしていくことが大切だと感じました。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行14を読んで
【本文】
1984年(昭和59年)の春、総合企画室に移った。そこで命じられた仕事はMOF担当、通称「モフ担」。監督官庁である大蔵省の官僚に情報を提供したり、官僚から情報収集したりする役目だ。バブル崩壊後、90年代後半に噴き出した過剰接待問題などの影響で、良い印象を持たない方もいらっしゃるだろう。確かに親交を深めるための夜のつきあいはあった。しかし、仕事の中心は日中、当時の証券局の方々と市場の制度設計などを議論することだった。…
【感想】
当時の大蔵省の目の届く保護圏内に留まるのではなく、新しい分野へ打って出る証券会社の先駆者を選んだ野村だから今日があるのだと感じました。私たちも他の不動産業者がやらない事、宅建取得のための勉強会開催・注文住宅用地を探してる個人のお客様に特化した空地空家調査・IT重説・リモート契約など軌道に乗せ、新しい不動産会社のカタチを創り上げてまいります。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行13を読んで
【本文】
引受部に在籍していた時には、米国と英国で通常と異なる業務にも携わった。最初は米国だ。1983年(昭和58年)、米西海岸に日本の協力で高速鉄道を走らせる「カリフォルニア新幹線」計画が持ち上がった。日本側の金融機関からアドバイザーとして加わったのが東京銀行、日本興業銀行、そして野村証券だった。資金調達を支援する役割を担った。野村に少数の専門チームが立ち上げられ、私も一員に加わった。しかし、残念ながら当時の証券会社には、将来の収入を担保に事業資金を賄う仕組み、すなわちプロジェクトファイナンスの知見も経験もなかった。…
【感想】
著者も証券会社での新しいプロジェクトに参加し、遅くまで会議資料をつくったのに立ち切れになったり、何度も壁にぶつかり成長していったのだと感じました。現状維持ではなく、常に新しいことを先を見据えて考えて行動し、PDCAを回転させることが大切だと思いました。余談ですが、私もマクドナルドではフィレオフィッシュを注文します。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行12を読んで
【本文】
人事部と職員部をそれぞれ3年余り経験した私は、入社7年目の中堅になっていた。さすがにビジネスの現場を知っていたほうが良いと判断されたのだろう。1980年(昭和55年)11月に引受部に異動した。株式や債券の発行をお手伝いする仕事だ。私がいた引受部二課には戦後に誕生した比較的若い企業が多く、主に株式での資金調達を担当した。それはそれで良い経験だったが、何よりも、若くて個性的な方々と知り合えたのが幸せだった。…
【感想】
「キープヤング」と呼ばれ、実力があるものは昇進させ、一年で結果が出せなければ、地方支店へ降格させる。常にポジションの逆転のありうる緊張感が平時の状況をつくっている…。不況を乗り越え、今も成長し残っている企業が採用している人事政策を「野村証券」が日本企業では先駆的にはじめたようですが、私たち不動産業界でも、現状のぬるま湯に浸かっているようでは、先がありません。常に前進し目標を達成し続ける強い信念を持って仕事に取り組んでまいります。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行11を読んで
【本文】
入社4年目、1977年(昭和52年)の7月から職員部に異動になった。人事部も部外者からは何をしているか分からなかったが、職員部はさらに分かりにくい部だった。社内でも仕事の内容を知らない人が多かった。もともと私を野村証券に入社させ、人事部でも上司だった鈴木政志さんは看板部門である事業法人部に移っていった。正直言って「置いていかれた」と思った。軍艦ビルと呼ばれた野村証券本社から、通り1本隔てたビルの一室に人事部があった。…
【感想】
人事部から職員部と、裏方の部署に異動することとなった著者だが、腐ることなく与えられた職務をこなし、労務から会社を良くするために何が必要か試行錯誤されたのだと感じました。住宅比較株式会社をより良い会社にしていくために、新しい手段を試行錯誤して進んでいきたいと思います。浦和店での「宅建勉強会」開催もその一つです。あと1人参加者を確保してまいります。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
私の課長時代を読んで
伊藤忠テクノソリューションズ
柘植一郎 社長
1980年に伊藤忠商事に入社した柘植社長は
ニューヨークの小会社で初めて課長となり
3人の部下を抱えます。
あうんの呼吸が通じない
部下には大切な顧客との接待の飲食店の予約を頼みますが、信頼して予算はいくらでもいい。
と指示をしますが、部下からは
ノーリミットなんてありえない
困った表情を浮かべられてしまいます。
具体的で世界の誰でも伝わるような明確かつ論理的な指示の方法を鍛える場になった。
柘植氏はこう述べていました。
上司と部下の関係は仕事をしていく上では
お互いの協力無しで何か達成するのはとても難しいことだと感じました。
今日からの仕事に活かして参ります。
住宅比較株式会社
吉田真樹
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑩を読んで
【本文】
私が野村証券に入った1974年(昭和49年)は歴史的な大量採用の年だった。大卒総合職だけで約300人。このほかに短大や高校卒業者を含めて2500人くらい採った。それまでの野村は6~7000人くらいの会社だったから、陣容は一気に4割増し。4人に1人は新入社員という会社になった。これは80年代終わりから90年代のバブル採用よりも多い。なぜこのような採用をしたのかとひと言で言えば「時代」だった。…
【感想】
弊社社長が「普通は大学卒業前に宅建もってるよ」とよく言われるが、柴田拓美君も、資格を持っていないことを指摘された数ヶ月後には、英検1級を上位合格で取得したという…。できる人はできる、そういうハウスメーカーの方々からのご紹介でお手伝いをさせていただいておりますので、私達も日々勉強し、資格取得に挑戦し、力をつけていく必要があると感じました。毎日、1時間勉強。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑨を読んで
【本文】
就職に関して言えば、銀行は少しためらわれるものがあった。親や家族のことなども調べると聞いていたからだ。父親が借金の保証人になり店をたたんだことが、気になっていたのだ。内定は訪問解禁日に回った商社と、後日足を運んだ大手損害保険会社からいただいた。その損保の方から「野村証券が今、すごい勢いで採用をしている。行ったら大変だろう」と聞かされた。もちろん存在は知っていたが、野村という会社を意識したのはこの時が初めてだ。…
【感想】
「鶏口となるも牛後となるなかれ」大きな組織にあって誰かの指示を受けるよりは、小さな組織でリスクがあっても指示をする立場の方がマシであると言うことのたとえ。著者の就職先を決める心を動かしたことわざで紹介されていました。「業界トップの企業にいると、日ごろ考えることが違う。常に社会の先を見ている。仕事の質が違ってくる。…」弊社社長より、毎日日経読むのは当たり前。と言われておりますが、社会の先を見据えた考え、行動により、仕事の質も変えていく、早く自転車操業から脱出し、業界の先を見据えた仕事に取り組んでまいります。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑧を読んで
【本文】
1969年(昭和44年)、1月に東京大学の入試中止は決まったが、2月には高校の卒業式があった。もはや寮に住むことはできない。父親は亡くなっており、家族は東京に移り住んでいた。私も家族を訪ねて何度か行ったことがあるので、東京は未知の場所ではなかった。鹿児島から東京まで列車の旅。丸1日以上かけて行く。集団就職の中学生たちと乗り合わせ、神戸までずっと立ちっぱなしだったこともある。そんな時代だった。…
【感想】
鹿児島から東京に上京して、お姉さんとの共同生活で3週間で体重が10キロ増加してしまったようですが、寮での緊張した生活から気が抜けてしまったからでしょう。私もあと1ヶ月で4キロ減量が課せられておりますので、気を引き締めて行動してまいります。著者も上京してからアルバイトを始めたようですが、ここでも、仕事を無駄な動きをせず、効率的に行うことを学んだようです。どんな仕事でも、ただやれば良いというのではなく、目的とゴールを考えながら効率的に動くことを日々考えながら実践してまいります。
住宅比較株式会社 浦和店 赤松 誠