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般若心経 亦無無明尽(やくむむみょうじん)
無明はないのではあるが、無明がなくなるということもないというのは、
すべてが空であるというところからいえるのです。無明がなくなったらさとりの境地となりますが、
そもそも無明はないのですから、ないものをなくしてもさとりは得られないという理屈になります。
さとりにひきずられるなということです。
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般若心経 乃至無意識界(ないしむいしきかい)
人はなかなか自分を捨てられるものではありません。大体において、人は自分の立場からものごとを見るものです。
自分の立場とは、どうしても自分を守ろうとするものであって、そこに執着が生まれます。
そこからすべての煩悩が発生するのです。
空の根源的な意味は、執着を離れるという意味なのです。
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般若心経 無眼界(むげんかい)
目で見て認識することは、私たちが生きていくうえでまことに大きいと感じられるのですが、
実はそんな世界はないのだといっています。目で見えることが絶対であるはずはありません。
相手を憎んでいれば醜いと見え、愛していれば美しいとも見えるのです。
自分の目でさえもこだわってはいけないということです。
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般若心経 無色声香味触法(むしきしょうこうみそくほう)
色声香味触とは、眼耳鼻舌身意の六根が感じる対象のことです。
六根の感覚器官がなければ、もちろん感じる対象もありません。
自分が感じたことだけを正しいと思い込み、その価値観を人に
押しつける人が時々ありますが、それは自分への執着によるこだわりです。
執着を捨てることからすべてははじまると、この経は説いています。
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般若心経 無眼耳鼻舌身意(むげんにびぜつしんい)
私たちは眼と耳と鼻と舌と体と心とを使って、この世の成り立ちやらさまざまな現象を認識します。
その感覚器官は一定でなく、その時の条件でいつも揺れ動いています。正しい判断をしたとしても、
条件が変わるともう正しいとはいえません。感覚器官で認識したものだけにとらわれてはいけないということです。
般若心経 無受想行識(むじゅそうぎょうしき)
受想行識がないということは、すなわち心という実体はないということです。
ある人が大成功をとげたとして、その出来事は一つなのに、ある人は嬉しく、
ある人は悔しく感じます。心というものは絶対的に固定されているのではなく、
立場によって感じ方がまったく変わるように、いつも揺れ動いているのです。
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般若心経 是故空中無色(ぜこくうちゅうむしき)
空には形がある存在がないのですから、人を愛したり憎んだり、
物を貪ったりする心が生じるその根本の煩悩や、そのもっと本質であるところの無明には、
誰にもわかる形があるというような実体はないのです。すべての関係の中から生じてくるのですが、
実体もないものにとらわれることはないのです。
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般若心経(不増不減)
何かが増えたり減ったりするたび一喜一憂するのが、私たちの実際の暮らしです。
たとえばここに千円があったとして、千円もあると喜ぶ人と、千円しかないと悲しむ人がいます。
この世は空ですから、そのことで何も変わっていないのに、千円を心がどう感じるかによって、
幸福にもなれば不幸にもなるのです。
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般若心経 不垢不浄(ふくふじょう)
きれいとか汚いということは、すべての人の心が決めるもので、きれい汚いの実体があるわけではありません。
例題としてよく使われるのが、小便をいれたコップを煮沸消毒し、汚れを完全に拭い〔ぬぐ〕い去ってからビールを
つぐとします。知っていればビールは飲めません。コップを汚いと決めるのは、人の心だということです。
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