スタッフブログ
日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑩を読んで
【本文】
私が野村証券に入った1974年(昭和49年)は歴史的な大量採用の年だった。大卒総合職だけで約300人。このほかに短大や高校卒業者を含めて2500人くらい採った。それまでの野村は6~7000人くらいの会社だったから、陣容は一気に4割増し。4人に1人は新入社員という会社になった。これは80年代終わりから90年代のバブル採用よりも多い。なぜこのような採用をしたのかとひと言で言えば「時代」だった。…
【感想】
弊社社長が「普通は大学卒業前に宅建もってるよ」とよく言われるが、柴田拓美君も、資格を持っていないことを指摘された数ヶ月後には、英検1級を上位合格で取得したという…。できる人はできる、そういうハウスメーカーの方々からのご紹介でお手伝いをさせていただいておりますので、私達も日々勉強し、資格取得に挑戦し、力をつけていく必要があると感じました。毎日、1時間勉強。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑨を読んで
【本文】
就職に関して言えば、銀行は少しためらわれるものがあった。親や家族のことなども調べると聞いていたからだ。父親が借金の保証人になり店をたたんだことが、気になっていたのだ。内定は訪問解禁日に回った商社と、後日足を運んだ大手損害保険会社からいただいた。その損保の方から「野村証券が今、すごい勢いで採用をしている。行ったら大変だろう」と聞かされた。もちろん存在は知っていたが、野村という会社を意識したのはこの時が初めてだ。…
【感想】
「鶏口となるも牛後となるなかれ」大きな組織にあって誰かの指示を受けるよりは、小さな組織でリスクがあっても指示をする立場の方がマシであると言うことのたとえ。著者の就職先を決める心を動かしたことわざで紹介されていました。「業界トップの企業にいると、日ごろ考えることが違う。常に社会の先を見ている。仕事の質が違ってくる。…」弊社社長より、毎日日経読むのは当たり前。と言われておりますが、社会の先を見据えた考え、行動により、仕事の質も変えていく、早く自転車操業から脱出し、業界の先を見据えた仕事に取り組んでまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑧を読んで
【本文】
1969年(昭和44年)、1月に東京大学の入試中止は決まったが、2月には高校の卒業式があった。もはや寮に住むことはできない。父親は亡くなっており、家族は東京に移り住んでいた。私も家族を訪ねて何度か行ったことがあるので、東京は未知の場所ではなかった。鹿児島から東京まで列車の旅。丸1日以上かけて行く。集団就職の中学生たちと乗り合わせ、神戸までずっと立ちっぱなしだったこともある。そんな時代だった。…
【感想】
鹿児島から東京に上京して、お姉さんとの共同生活で3週間で体重が10キロ増加してしまったようですが、寮での緊張した生活から気が抜けてしまったからでしょう。私もあと1ヶ月で4キロ減量が課せられておりますので、気を引き締めて行動してまいります。著者も上京してからアルバイトを始めたようですが、ここでも、仕事を無駄な動きをせず、効率的に行うことを学んだようです。どんな仕事でも、ただやれば良いというのではなく、目的とゴールを考えながら効率的に動くことを日々考えながら実践してまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑦を読んで
【本文】
今も昔もラ・サール学園の多くの生徒は寮で生活を送る。鹿児島県だけでなく九州一円、関東や関西などからも生徒を迎えるからだ。今、中学生の寮には8人で一室の寝室と、間仕切りのある机が並んだ自習室がある。高校生はひとりで勉強できる個室に移る。中学生と高校生は起床や就寝、勉強時間などがきちんと決められている。受験勉強をたくさんしなければならない高3になると、寮を出て、学校近くで下宿暮らしをする。…
【感想】
著者は、ラ・サール高時代に屋根裏で寝泊り、勉強し東大法学部に合格した。暗く汚く静かな屋根裏で集中して勉強したようです。2月から宅建講師を行いますので、今月は集中して宅建を復習して受講者の質疑に答えられるように準備してまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑥を読んで
【本文】
高校1年生の時に担任をしてくださったのが、早坂正隆さんという国語の先生だった。確か30歳ちょっとの文学青年風。授業で中原中也の詩の読み方を教えていただいたのが記憶に残る。仙台の出身だが、なぜか鹿児島で教えているという不思議な方だった。学校にラグビー部をつくり、その顧問もなさっていた。私はラグビーをしていないが、忘れられない恩師を挙げよと言われれば、間違いなく早坂先生だ。今日はその思い出を書く。…
【感想】
ここでも高校時代の恩師、早坂先生に色々とお力添えをいただいた話でしたが、恩師との出会いがなければ今日の著者は無かったと書かれておりました。人生のターニングポイントで、色々な方に出会い、その出会いを大切にしていることが著者を人間的にも成長されたのだと感じました。仕事でもお客様と出会い「一期一会」を大切に、接客してまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行⑤を読んで
【本文】
高校3年間を過ごした鹿児島市のラ・サール学園は1950年(昭和25年)の開校だ。私の生まれた年と同じで、同級生みたいなものだ。受験勉強をしている時から縁のようなものを感じていた。通っていた福岡県大牟田市の松原中学校から4人の同級生が試験を受けた。受験番号は174。この番号だけは今でも覚えている。試験前、番号をじーっと眺めていた私はある考えが頭に浮かび「受かった!」と口走った。理由は「174は173(ひとなみ=人並み)より上」だからだ。…
【感想】
ラ・サール学園名は、私の世代だとコント赤信号のラサール石井氏で初めて知ったと記憶しております。受験でも緊張や不安もあったと思いますが、著者の受験番号の語呂で自信が持てたという、プラス思考の発想も社会経験に生きているのだと思いました。雑誌見出しでも「熱狂のマンション、崖っぷちの戸建て」などあり、資材高騰などを受け、新築物件は、注目度が低くなっている記事が載っていますが、発想の転換で、マイホームFPを使い適正な資金計画で良い物件を勧めてお客様に幸せをご提案してまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行④を読んで
【本文】
小学生のころ、格好いいと街で評判のお兄さんがいた。げたをカランコロンと鳴らしながら、よく散歩をしていた。九州大学を卒業して九州電力に勤めているとのことだった。世話好きの近所のおばさんたちから「あんたもしっかり勉強して、あんなお兄さんになりなさい」などと言われたことがある。九大に進んで九電に就職する。当時の地元の子供たちにとって、何ともまばゆく映る人生だった。自分もそうであれば良いとは思いつつ、一方で、長男だから両親が切り盛りする酒店を継いで、ずっと大牟田にいるのだろうなと思っていた。…
【感想】
著者は母の勧めで進学塾の「小宮塾」に通って、実家の酒店を継ぐ道から、人生を変えていった。いつでも、どんな時でも勉強することは進むべき道のきっかけになると思いました。私も今年は宅建の講師にチャレンジいたします。全員合格を目指して私も日々勉強してまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行③を読んで
【本文】
今に至るまで「極端なことは良くない」と心の底から思っている。人に関する考え方や評価も同じだ。どんな人でも良いところと、駄目なところが必ずある。どちらか一方だけに目を向けるべきではない。真実は常に中間にある。「中庸」は、私にとってストンと落ちる言葉だ。こんな考えを持つようになったのは、父がお酒を売る商売をしていたことといささか関係があるように思う。大牟田は炭鉱の街。通っていた中友小学校には三井三池炭鉱で実際に山にもぐって採炭する人や、炭鉱会社の現場管理職、東京から赴任して来たいわゆるホワイトカラーなど、さまざまな親を持つ子供たちが通っていた。…
【感想】
著者は幼少期の出来事から「中庸」という考え方が身についた。かたよることなく常に変わらないこと。過不足なく調和が取れていること。幼少期から分け隔てなく人の意見に耳を傾けることが今日の著者を形成されたのだと思いました。会社でも、人の話や意見を聴く、お客様の話をよく聴く、上辺だけでなく心の声を聴く努力をしてまいります。
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日経新聞 私の履歴書 古賀 信行②を読んで
【本文】
姉と弟がいる。2番目の子であり長男の私は、父の定男が43歳、母のミツエが40歳の時に生まれた。父と母はいとこ同士だったので、どちらも姓は古賀。福岡県にとても多い名字だ。私も小さい頃から学校のクラスに必ず「古賀くん」や「古賀さん」がいた。学校の友達に名字で呼ばれたことがない。よく「のぶちゃん」と呼ばれていた。3人兄弟の長男だった父は家が貧しかったため、高等小学校を出てすぐに働きに出た。家族や弟たちの面倒を見ながら、大牟田市内で酒屋を開業した。きちっとしたまじめな感じの人だった。…
【感想】
幼少期に見た父親を、反面教師として勉学に励み、東大に合格された著者は立派な親孝行をしてきたと思いました。幼少期の親も忙しかったように、野村証券に入社してしても、親のきちっとしたまじめな性格を受け継ぎ、顧客からの信頼を築き、休む間もなく邁進されたのだと思いました。2023年、浦和店も新体制になりますので休む間もなく目標達成に向けて邁進してまいります。
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