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般若心経 是大神呪(ぜだいじんしゅ)
大いなる真言(しんごん)こそが、智慧の完成ということです。
如来の真実であるから真言というのです。
不思議な霊力をあらわす言葉を、古代インド語ではマントラといい、
漢訳されて「呪(しゅ)」や「真言」とされました。
仏教が確立する以前の世界では、宗教の儀式の際に歌われる神歌のことでした。
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般若心経 故知般若波羅蜜多(こちはんにゃはらみつた)
「故に知るべし、波羅蜜多は」ということで、これから智慧の完成はどのように表現され、
どのような効果があるかが説かれます。すなわち、あまりに微妙で不可思議で、
私たち凡人にはなかなかに計り知れないものであるということなのです。
頭でりかいしようとしても、限界があるということです。
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般若心経 得阿耨多羅三藐三菩提(とくあのくたらさんみゃくさんぼだい)
サンスクリット語の「アヌッタラーサミヤックサムボーディ」を」漢字で書くと、阿耨多羅三藐三菩提となるのです。
ふさわしい言葉がないので、そのまま音訳したのです。ひらたくいえば「このうえない正しいさとりの境地」と
いうことになります。仏とは智慧とは、あまりにも微妙で崇高で、言葉が追いつけません。
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般若心経 依般若波羅蜜多故(えはんにゃはらみつたこ)
「般若(はんにゃ)」とは古代インド語の「パンナ」で、真実の生命に目覚めた時に得ることのできる根源的な
叡智(えいち)ということです。すべてのものごとの真理が、この経典に説かれている空(くう)ということなのです。
私たちの人生では、この空の認識をもってすれば、苦しみ悩みも乗り越えることができるのです。
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般若心経 三世諸仏(さんぜしょぶつ)
過去は過ぎ去ってすでに見えないのではなく、未来はいまだやってこずに存在しないのではなく、
この現在の中にすべて現れているのです。私の前には、過去と現在と未来にわたるすべてのことが、
真理なって流れているのですが、なかなかそれを見ることができないのです。
私たちの前には実にすべてがあるのです。
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般若心経 究竟涅槃(くきょうねはん)
慈悲ということが、仏の愛なのです。相手にへりくだったり、自分に従属させたり、
お互いにへつらう関係の中からは、このうえなく平安な境地には到ことはできません。
正しい判断にもとづいた行動をすれば、迷いのない絶対安心の境地をきわめつくすことができる、
すなわちこのうえない境地にはいることができるということです。
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般若心経 (遠離一切顚倒夢想 おんりいっさいてんどうむそう)
正しいことを悪いとみなし、悪いことを正しいとみなすのが顚倒で、そのような誤った考えは夢のごとくむなしいので、
そこから離れなさいということです。たとえばアイには、自分はこんなに愛したのだから相手からもあ愛してほしいと、
代償を求める執着があります。慈悲は、まったく見返りを求めません。
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般若心経 無有恐怖(むうくふ)
心がこだわらなければ、恐怖[くふ]はやってきません。
この頃災難を受けることが多いからお祓[はら]いをやって欲しいと
親戚の人より頼まれた良寛は、災難を受ける時には受けるがよろしいとさとしたそうです。
それが災難の被害を最も小さくする方法です。
小さな災難を受けていたほうが、結局は無事です。
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般若心経 無罣礙故(むけいげこ)
心にこだわりを持たないが故に、という意味です。執着がなければ、とらわれもなく、
苦しみが湧いてくることはないということです。こだわっていると、
たとえば愛する人が心変わりをした時、愛が反転して憎悪になります。
愛が深ければ深いほど、憎悪の激しさは増してきます。こだわりも無明でしょう。
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