スタッフブログ
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏 (10)
始動
1982年、川崎市の旭ダウ研究部門で電気を通すプラスチックであるポリアセチレンの試作ラインが完成した。のちにノーベル化学賞を受ける白川英樹・筑波大学教授が発見した導電性高分子をつくるラインである。
白川教授と共同研究していた京都大学の山邉時雄教授の研究室に通い詰め、合成技術を教えてもらった。前年にノーベル化学賞を受賞された福井謙一先生が退官され、山邉先生が後任に就いていた。
電池研究 電極へ応用に的 ライバル多く市場調査
吉野氏の電池研究がスタートし、何をどういうものを作るかはもちろん市場で求められるものの調査を行い研究が続けられた話が載っていました。
吉野氏の研究は作りたいものを作るのではなく、何が必要とされ作るのか。
営業が売りたいものを売るのではなく、お客様が欲しいものを売る。営業が推測するのではなく、お客様が何が欲しいのか聴き、それに対して全力で応えることが大切。お客様の話をしっかり聴きます。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
週刊ダイアモンド を読んで
自他共に認めるバイタリティ社長
住友生命保険 高田幸徳氏の記事が掲載されておりました。
どうすれば越えることができるか、今も突き詰め続けています。生命保険会社として顧客に提供できる最大の価値は保険金の支払いとそれがある故の安心感だ・・・
これを越えるを常に強く持ち続け、健康寿命を伸ばすことに貢献することで、社会や顧客からの信頼をえていったことが記載されておりました。
お客様へ私ができる最大の価値は何かを常に考え、できるようにすることが必要と感じました。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(9)
ポリアセチレン
「電気を通す樹脂」に驚き 京大に通い製造技術学ぶ
ガラス容器に入ったその物質を見たときの驚きは、いまも忘れない。一見すると灰色の樹脂の塊だが、一部がアルミ箔のようになり、銀色の鈍い光を放っている。その怪しい光沢に一瞬で魅せられた。
1981年、母校・京都大学の研究室で、電気を通すプラスチックであるポリアセチレンに出合ったときのことだ。「プラスチックなのに、なぜ金属のように光るのだろう」と驚いたことは初回にも書いた。
驚きが感動につながり興味になると思いました。何かに対して感受性を高く持ち、驚き、疑問、感動、興味、追求と進んでいき、新しい発見へとつながる。
仕事でもお客様に対してなぜこういう意見が出たのか、なぜこの土地が気に入っていただけたのか、検討に入らなかったと感受性を高く持ち、お客様の真意を高めるようにしていこうと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(8)
迷い道
ひとつ曲がり角、ひとつ間違えて、迷い道くねくね~~。
シンガーソングライターの渡辺真知子さんが歌う「迷い道」を聴くと、研究開発とはつくづくこの歌詞に似ていると思う。道筋は決してまっすぐではなく、選択を間違えると、とんでもない迷路にはまりこむ。まさに曲がり道くねくね、と。
旭化成に1972年に入社して8年間に3つの研究テーマに取り組んだが、どれも芽が出ず途中で諦めた。
未来は現在の延長にあるのではなく。過去の延長線上にある。現在からでなく過去から遡って未来を見よ。
道すじは決してまっすぐではなく、選択を間違えるととんでもない迷路に迷い込む
ゴールを決め、そこに向かう道はいくつもある、過去の経験や今の現状把握からどういう道を歩むべきかしっかり考えていこうとおもいました。
お客様も理想があり、それをいかにどういう提案で叶えてもらえるか考えてより良い提案をしようと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(7)
連戦連敗
1972年、旭化成の研究者として新たな人生を踏み出した。配属先は米ダウ・ケミカルとの折半出資会社である旭ダウの研究開発部門。研究開発のシーズ(種)を見つけ、新しい製品に育てていく「探索研究」という仕事を任された。
最初に取り組んだのが「合わせガラス」に使う新しい樹脂の研究だ。
合わせガラスは車のフロントガラスなどに使い、割れても飛散しないよう2枚のガラスを貼り合わせる。
何度もチャレンジして何度も失敗して、その度に反省して改善して成長していく。失敗するたびに反省して成長できるように考えていこうと思いました。
今は失敗したくない、失敗をすると怒られるとだけ考えてしまう。しっかり反省して成長すると考えます。
失敗は成功のもと
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(6)
入社
京都大学の修士課程2年になると、そろそろ進路を考えなければならない。子どものころから化学に憧れ、大学で光化学反応を研究していると、研究者として生涯、探求の道を歩みたいという思いがますます強まっていた。研究は順調だった。修士論文のテーマに選んだのは「電荷移動錯体の光化学反応」。電子を出しやすい化合物と受け取りやすい化合物が結合して「錯体」という分子をつくる。そこに紫外線や可視光を照射したときの反応を調べた。だいぶ苦労したが、後でこの論文を英文で投稿すると、英国科学会が選定する「1971年に投稿された注目論文」の一つに選ばれた。
野武士の気風 旭化成へ 魅力的に思えた企業研究者
企業に就職し、研究の成果を製品として送り出し、社会に恩返しする。そうした研究人生を送るのが魅力的に思えるようになった。企業で研究するならどこがよいか。旭化成…旧財閥の系列に属さないうえ、元々の繊維メーカーから脱皮しつつある。野武士のような雰囲気のある企業だと惹かれ、研究職を目指すには魅力的だった。
自分が何をしたいか、何をすることでどうなりたいか、その結果どういう影響を与えられるかとどこまで先を見据えた考えができているかということを認識させていただきました。私は何をしたいかまでしか考えておらず、その先の先の先、といった奥底までのことが考えられていないから今の行動になっていると思います。
先を見越した考え方や行動をすることで、お客様に喜んでもらえ、改善ができていくと思います。考え方や深く考えることを今後は意識していこうと思います。
深謀遠慮
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
宅建追込み! その3
みなさん、お疲れ様です。 今日も仕事帰りに集合して、朝から特訓組も含め、
5人で 戸ヶ崎講師による「一問一答」集中講座 開催中です!
睡魔に負けず集中してます! みなさん、応援よろしくお願いします!
本試験まであと10日!
春日部店 赤松 誠
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(6)
大学闘争
京都大学の工学部石油化学科で米澤貞次郎教授の研究室に入り、福井謙一教授の授業を受けて化学への思いを新たにしたが、すぐに研究に没頭できたわけではない。1968~69年、京大でも大学闘争の嵐が吹き荒れ、研究や実験がまともにできたのは数カ月だけだった。セクトを超えた全共闘運動は東京大学や日本大学から全国の大学に広がっていた。69年1月、東大の安田講堂を占拠していた学生たちが機動隊によって排除されたのと同じ頃、京大でもバリケードが築かれ、学生が多くの建物に立て籠もった。
授業中止で仲間と議論
大学闘争で授業が中止となり、3回生の後半からは大学に言った記憶があまりない。何のための学生闘争なのか。仲間同士で深夜までよく議論したものだ。エリートである君たちはいずれ社会に出て特権的な扱いを受け、人民を支配することになる。そういう自分を否定しよう。私たちってエリートなの?・・・社会のこと世界のこと日本のことをこの時ほど真剣に議論したことは後にもなかった。
吉野氏は大学に行ってすぐに研究に没頭できたわけではないとの記載がありました。周囲の環境や思想から今すべきこと・やりたいこと・必要なことと様々あり、その時その時を全力で考え行動することが経験となり、のちの自分を気づいていると思いました。
お客様に対しても、本当に必要な情報・ほしい情報をしっかり認識して、わからなければ聞きに行って知り、お伝えするようにしていこうと思います。
真意を知る
住宅比較株式会社 浦和
竹内智哉
日経新聞 私の履歴書を読んで 吉野 彰氏(5)
1968年、京都大学工学部石油化学科の3回生になり、米澤貞次郎教授の研究室に所属することになった。米澤先生は、後にノーベル化学賞を受賞された福井謙一教授の弟子に当たる。当時、最先端の量子化学の研究に取り組んでおられ、そこに憧れて研究室に入った。
助教授の大橋守先生は東京教育大学(現筑波大学)で天然物化学を研究して京大に移ってきたばかり。量子有機化学という新しい分野に挑んでいた。
問題解けず立ち尽くす
福井謙一先生は学生に考えさせることに力点を置いていた。わかっているつもりのことがわかり、失敗したことを痛切に覚え、進歩・成長につなげることを教えていたのではと思いました。
私はわかっているつもり、できているつもりで仕事をしていることが多いと思います。周りの方からアドバイスを頂いてもどうせと思いやらないことも多々あります。記事を読んで、考えるだけで何もせずに判断するのは非常にもったいないと感じました。自分自身を客観的に見れず正しい認識ができていないと感じました。
自分自身を客観的に判断し、まずは実践していこうと思います。
現状認識力
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉