スタッフブログ
日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(11)
初挑戦
ハンドル大型化し完走 疲れたレース 課題を痛感
F1初挑戦の1987年、僕が乗ったのはロータス99Tというニューマシンだった。車高や姿勢を燃料の残量などに関係なく、コンピューター制御で一定に保つアクティブ・サスペンションという革新的な技術を盛り込んでいた。それだけテストで煮詰める部分が大きく残されていた。
2月からテストを開始。車体は黄色のキャメルカラーが鮮やか。
中嶋氏の言葉で必要と考えていたものが想像の範囲を出ていなかったことを早速思い知らされた。実際に痛い目に遭ってこれも足りないと気付かされた。
10のことをやれといわれたら12をやらないとここでは戦えない。
こんなにも努力している方でさえ足りないとおっしゃっている、私は努力も準備も足りていない10やれと言われても10すらやらずにいる状況です。
まずは約束・納期を守り、もっと深く先まで想定した行動をできる様にしていきたいと思います。
住宅比較株式会社 浦和 竹内智哉
日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(10)
かなった願い
初レースから13年 F1へ ロータスの第2ドライバーに
目覚ましが鳴っても「あれ……。今、俺はどこにいるんだっけ。何をするために起きるんだっけ」。1986年はそんな朝の繰り返しだった。時差ボケなどころか、全部がすっ飛んでいる感じ。
この年、F3000の欧州転戦に備え、ロンドン近郊に引っ越した。日本のF2とホンダF1エンジンのテストを掛け持ちし、夏はルマン24時間耐久レースをトムス・トヨタで走ったりした。
疲れを通り越し楽しさを感じた。できることを最大限やりきった。
目標を達成している方は当たり前にやってやり続けています。私はやった、また後でと何かしらの理由をつけて最大限やったと誰からも言ってもらえる仕事をしていないと思いました。
やり切る仕事、最大限の仕事意識していこうと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(9)
希望と不安
夢を追って会社立ち上げ F1への思い胸に勝利重ねる
生沢徹さんに合流することは、それまで世話になったヒーローズ・レーシングの田中弘さんや松浦賢さんにさよならをすること。といっても簡単に欧州には行けず、活動の軸足は日本に置いたままだったから、「恩知らず」と業界内でたたかれた。
1979年から生沢さんと活動し、4年目にやっと欧州のF2をスポットで5レース走れた。表彰台に2位で一度上がったが、僕が望むフル参戦には程遠い状況だった。
新しい環境に飛び立つ、中嶋氏が新しい天地に行くために今までのチームを離れることが書かれておりました。新しい環境に行くこと、ステップアップ・自身のゴールのためにさらに成長するためにと多く理由・原動力があると思います。
もちろん今の現状をしっかりとできていて、先へ進んでも活躍できる実力ができていなければ、こんなことは考えられないと思います。
私も今の自分をしっかり見つめ、将来を考えた今を確実に丁寧に何事も行える様にし、成長したいと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(8)
英F3参戦
多重衝突も奇跡の無傷 日本と違うレース文化に感動
日本のF2選手権で初勝利を挙げた1978年、僕は人生を変える出来事を英国で味わった。上げ潮の僕を見込んだノバ・エンジニアリングの山梨信輔社長の発案で、ノバ製のFJ1300の車体にトヨタの2000ccエンジンを積み、夏に英国のF3レースに挑戦したのだ。
7月15日の最初のレース。ブランズ・ハッチのサーキットでスタート直後に発生した多重衝突に巻き込まれ、僕の車も派手に宙を舞った。
目指す先の世界を知る
中嶋氏がF1の世界を初めて見た時、ここにこないとレーサーの終着点はない・・・この世界、捨てたもんじゃないと感じF1を目指すことを決めたことが書かれておりました。
将来どうなりたいのか、なるために自分に今足りないものはなにか。今選択する行動は正しいのか、それをしっかりと考えなければならないと感じました。
自分の楽のため、今をやり過ごすではなく、自身の目指す姿に対しての判断ができる様になりたいと思います。
お客様に対しても、自身の行動の影響の強さを再認識していこうと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(7)
星野一義さん
永遠のライバル 今も競争 プロ意識の塊 繊細だが熱く
1978年のヒーローズ・レーシングの強さはずぬけていた。2年目の僕は3月のF2の開幕レースから3位、2位と順位を上げ、5月の鈴鹿フォーミュラジャパンで初優勝した。総合王者は2年連続で星野一義さんだったけれど、79年に別のチームに移籍した僕は第1ドライバー同士で星野さんと戦い、ついに追い越すことになる。
81、82年とF2総合王者になり、84年から記録した3連覇はいまだ破られていない。
好き嫌いの問題じゃない。俺はこれで生きていく。プ意識の塊。
私は好きになればなんでも続けられる探求したくなると考えてきました。ですが、星野氏のこの言葉を知り、改めてプロとはどういうものかを考えさせて頂きました。
自分で決断すること、そしてやりぬくことができる方がプロなのだと思いました。プロとしての自分を確立していこうと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(6)
プロへ
FJ1300を7戦7勝 先輩・星野一義さんには勝てず
日本で最初の自動車レースが東京・洲崎の埋め立て地で行われたのは、1922(大正11)年というから結構、歴史は古い。62(昭和37)年に鈴鹿サーキット、66年に富士スピードウェイが開業し、トヨタや日産など大手自動車メーカーの「ワークス」と呼ばれるチームがしのぎを削るようになったあたりから、モータースポーツの認知度は急速に高まった。ホンダは64年に早くもF1に挑戦し、翌年初優勝している。
プロになること、中嶋氏がプロになった時代は世間の後押しは少なく、自力でレースを続けようと頑張る情熱家・好き者の集まりが走っていた時代だったとのことでした。そのような時代の中でも、お金ではなく、達成することやできるようになることを目標にし、ゴールを目指して進んでいると知りました。
お金でなく、達成することで叶うこと、1番になることでのわかることを知ろうとする姿に憧れを持ちました。
また、勝たなければいけない先輩の存在の大きさを知りました。
私にも、勝たなければならない上司がおります。後藤一義と竹内悟のような関係になり、我が社のNo.1の前を行く男になりたいと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(5)
登竜門
借りた車でライバル圧倒 苦しい活動資金 借金も膨らむ
青春はそれなりに謳歌していた。地元の友人たちとヨットやサーフィンに興じ、加山雄三さんの「若大将」シリーズに憧れ、大学進学を考えた時期もあった。高校の3年間はスキー同好会に属し、冬休みをまるまるスキー合宿に充てたりした。
しかし自分にはこれが一番と思えることと、実際にできることの辻つまが合うものを探すと、最後はレースが残った。車の挙動をさらに深く知ろうとしたら、公道ではもう無理だということも。
僕以上に僕のことを思い詰めてくれる人が現れる。
中嶋氏の節目節目での人との関わりや絆、感謝への強い考えを感じました。周囲の方から助けてもらえる・援助される、中嶋氏が成果を出すために行った行動や生活を見て周りの方は協力したくなっている。
自身の日頃の行動や努力が自身の結果を生むことを再度認識いたしました。
仕事も余暇も充実できるかは全て自身の日頃の生活の結果だと思います、常に考え常に行動していきます。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(4)
山道
S字やヘアピン 腕磨く 兄が石油店 配達もまた練習
18歳になると念願の自動車の普通運転免許を取得した。バイク同様、兄の正悟の手ほどきを受け、教習所に通うことなく合格した。「約束したよね」と父に迫り、白のフェアレディZを手に入れた。大卒初任給が4、5万円の時代に100万円もする新車を乗り回す僕は、ただのどら息子に見えたかもしれない。
断っておくが、車やレースに関する周囲への借金は後にすべて完済した。父親にも後年ベンツをプレゼントした。
中嶋氏は寝ても覚めてもプライベートも仕事中も練習になることを意識して生活していたのだと感じました。
常に考えることであらゆる想定をし、クリアし、一つ一つの快感に似た感覚を味わっていたとありました。
私も常に仕事、お客様、物件のことを考えられるようになり、様々な想定を事前にして準備していこうと思います。
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日経新聞 私の履歴書 中嶋悟氏 を読んで(3)
ゴーカート
初レースでいきなり優勝 生きる証し手に入れた感覚
中学生の頃、つい自宅の敷地内からバイクで公道に出て、警察官に追いかけられた。どう見ても子供にしか見えないのだから、向こうも慌てたことだろう。交番であれこれ聞かれ、説教もされたが、最後は「押して帰れというのも気の毒だなあ」。
交番が見えないところまで押して行ったら、後は好きにしろという意味だった。なんともおおらかな時代だった。
小学生でダンプカーも運転した。自宅の裏山が宅地造成で切り開かれ、削った土を運ぶダンプが四六時中出入りしていた。
ふとしたきっかけからエンジンの虜になり、今まで賞状の類を何一つ得てこなかった人生から、優勝トロフィーを獲得し、生きた証を手に入れた感覚だった。
私は学生時代・社会へ出てからと勉強をほとんどしてきませんでした。一昨年の宅地建物取引士が人生初めての国家資格でした。周りの方々の多大なご協力でやっと取得できました。中嶋氏のような人生を歩むために、私もこの一昨年の宅地建物取引士の資格をスタートに人生を始めていきたいと思います。
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